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青い桜は何を願う

第4章 私達にリングはいらない

  
 蒼白い朝だった。

 眠っている内にシーツからはみ出た肩を春の冷気に撫でられて、肌寒さが、意識に働きかけてきた。

 流衣は、まだ日も昇りきらない時間に目が覚めた。

 暗闇に飲み込まれていた世界が、明けてゆく。

 怠い身体とはよそに、頭だけが冴えていた。

 蒼白い、早朝の空が地上に注ぐ色彩が、カーテンの隙間の向こうに広がっていた。

 眠りが浅かった原因は、分かっていた。
 蒼白い空の気配に、昔を思い出させられるのだ。

 数百億年も前の記憶が、あの空の色に呼応する。

 忘れ難い少女に逢ったのは、青い日暮れだ。そして、別れたのも、今朝みたく蒼い朝だった。

 遠い昔の最初で最後の恋人だった、かの少女は、あの時も、惜しみない微笑みをくれた。

「…………」

「おはようございます、流衣ちゃん」

 板チョコレートの形をした扉の向こうから、ノックの音と、続いて男の声が聞こえた。

 流衣は寝台から身体を起こして、キャビネットの時計を瞥見する。

 時刻は七時ちょうどだ。夢ともつかない感覚的なものに叩き起こされてから、存外に経っていたらしい。

「どうぞ」

「失礼します」

 入ってきたのは有川行夜(ありかわこうや)、この屋敷に勤める執事だ。

 行夜は毎朝同じ時間に起こしに来てくれて、毎朝同じ立ち位置に、一欠片の埃もないスリッパを履いた足を止める。

 流衣が顔を上げると、今朝もきっちりと身なりを整えた行夜と目が合った。

 携帯電話と一輪挿しの並んだキャビネットに、やはり、毎日同じように準備されたティーセットが置かれた。耐熱ガラスのぷっくりしたティーカップに、爽やかな芳香を醸す鼈甲色の液体が、注がれてゆく。

「今朝のお茶はアッサムとウバとをブレンドし、温かいミルクに合うようコクのある仕上がりに致しました。ミルクがしつこくならぬよう、ペパーミントを少々香らせております」

 行夜から、白い歯がにっと覗き出る。
 黒い髪に浅黒い肌、筋肉質な身体を些かスマートに見せるスーツは皺一つない。その風貌は、十数年前からまるで変わらない。笑顔の張りつくかんばせだけが、三十路に入った青年らしく、ここ数年、落ち着きある風格を備えつつあった。

 活き活きとした表情だ。朝っぱらから、何がそんなに楽しいのか。

 流衣には、何かと世話を焼いてくれる、この執事が理解不能だ。

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