不透明な男
第9章 もうひとりの俺
あれは確か3年前、俺が2度目の記憶を失う少し前だった。
親も帰って来ず、23歳だった俺はアルバイトで生計を立てていた。
智『おはようございます。宜しくお願いします。』
『おお?誰かと思ったよ。黒髪とスーツにするだけでそれなりになるもんだな。染めたのか?』
智『いんや、黒彩だよ。髪用の黒いスプレーね』
『まあ今日だけだしな、わざわざ染めるまでもないか』
智『葬儀会場のバイトなんて初めてだよ。なんか緊張するな…』
『ちゃんと受付だけしてればいいさ。とりあえず、笑うな(笑)』
智『わかった、真面目な顔しとくよ(笑)』
大きな規模の葬儀で、人手が足りないからとバイト仲間に誘われ、1日だけの臨時アルバイトに来ていた。
俺は終始俯き加減で、参列者に会釈をしながら受付をしていたんだ。
手際良く次々と捌いていた筈なのに、ある参列者が俺の前で立ち止まった。
智『御記帳をお願いします』
『………』
智『…どうか、されましたか…?』
ずっと俯いていたから参列者の顔なんて見ていなかった。
俺の前で無言で立ち止まる参列者が不思議で、どうしたもんかと俺は顔を上げた。
……!
この男は………
俺の顔から血が引くのが分かる。
俺の顔は、一瞬で氷のように冷たくなったんだ。
智『こ、こちらに、御記帳を…』
『あ、ああ、すまない。…いや、君が、知り合いに凄く似ていたものでな』
俺の手は今にも震えそうだった。
だって膝は既に震えて、腰が抜けそうだったんだ。
だけど俺は耐えた。
震えそうな腕に力を込め、必死で震えを押さえた。
まるで初めて会ったかの様に、俺は他人の振りをしたんだ。
『つかぬ事を聞くが、君の名はなんと言う…?』
智『……成瀬、領です』
『…そうか、そうだな。あの子な訳が無い。いや、すまなかった。気にしないでくれ』
他の参列者に混ざった男は、人違いだったと言うものの、ずっと俺の方を見ていた。
男の視線がずっと俺に留まっていた。
だから俺は、腰を抜かす訳にはいかなかったんだ。