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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

第2章 揺れる心

「大丈夫よ、眼にゴミが入っただけだから」
 萌は殊更明るい声で応えながら、娘を安心させるように、もう一度笑顔を拵えた。
 だが、何で今更、どうして―という戸惑いもぬぐえない。ひとめ惚れという言葉はあるし、確かに相手に出逢った瞬間、恋に落ちるといったことも存在しないわけではない。
 人はそれを〝運命の出逢い〟などと名付けるけれど、四十歳になって今更、恋愛小説かドラマのような恋が始まるなんて思えないし、思ったこともない。アラフォーの人妻が劇的な恋に落ちるなんて話は所詮、ドラマの中での話で、現実に起こり得るはずがないのだ。
 萌は少なくとも今までは自分を〝常識人〟だと考えていたし、信じて疑ったこともなかった。しかし、出逢ったばかりの、しかも、たった一時間半一緒にいて写真を撮って貰ったばかりのカメラマンを忘れられなくなるなんて、自分でも信じられないことだ。
 しかも自分には優しくて誠実な夫も可愛い二人の娘たちもいるというのに。
 でも、どれほど現実に起こり得ないと思うことでも、起きてしまうことはままある。
 自分では認めたくはないことだが、田所祐一郎への想いが〝恋〟であるのは萌にも漠然とは理解できた。
 突如として気付いた事実に愕いている間に、歌は終わった。
 逢いたいから―。歌詞や旋律をすべて憶えられなくても、ただ、この歌を耳にしたときの心を揺さぶる切なさだけは残った。逢いたくて、逢いたくて、逢いたいのに、逢えない。
 だから、彼のことを想う度に神さまに願う。
 どうか、あのひとにもう一度だけ逢わせて下さい。彼に逢いたいから、この胸でただ何度も願うのだ。
 しかも、相手は萌がこれほどまでに彼に惹かれていることさえ知らない。いや、たった一瞬、客として相手をしただけの萌のことなど、その日が終わる前に忘れてしまっているだろう。彼にとって、萌はあの写真館を訪れる大勢の客の中の一人にすぎないのだから。
 そう、彼は萌にとっては、遠い男(ひと)だった。たとえ、どれほど逢いたいと願っても。
 
 意外なことに、その日出逢ったカメラマン―田所祐一郎は、どっかりと萌の心に棲みついてしまった。
 萌は一日に何度も小さな写真館で祐一郎と過ごした時間を思い出す。使う当てのない証明写真は、いつも持ち歩くパスケースに入れて、大切な宝物のように時折眺めた。

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