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君が桜のころ

第2章 花影のひと

「…え、ええ…」
兄が親身に声をかけてくれることは稀だ。
とても嬉しいのだが、まだ一度しか会ったことがない男性の屋敷を訪問するのは気が重かった。
しかも、清賀がなぜこんなにも自分を気に入っているのかも分からないのだ。
どうしようか思案していると、凪子の優しい声が聞こえた。
「…綾佳さん、参りましょう」
「…お義姉様…?」
凪子は綾佳に慇懃なまで丁寧に伝える。
「折角ご招待いただいたのですもの。…綾佳さんが初めて私達身内以外の方と打ち解けてお話出来た方でしょう?…清賀様は卑しからぬご立派な実業家でいらっしゃるし、綾佳さんに特別なご興味をお持ちのようですしね。…もしかしたら…綾佳さんとのご縁談をお望みなのかも知れないわ」
凪子の言葉を聞くや否や、綾佳は珍しく強い口調で切り替えす。
「で、でも…!わ、私にそのような意思はございませんわ…!」
綾佳が凪子に言い返すことは初めてだ。
慎一郎は勿論、麻乃やスミも驚きに眼を見張る。
1人、凪子だけは可笑しそうに笑った。
「まあまあ、綾佳さんたら…。冗談ですわよ。…清賀様と貴女がお話されているご様子を拝見したけれど、何だかとてもお似合いだったもので、そんな気がしただけよ。…大丈夫、ご心配なさらないで。貴女にその気がないなら、もしそのようなお話が出たら私からやんわりとお断りしてさしあげるから」
そう甘く優しく話しかけると凪子は綾佳の手を握りしめた。
途端に綾佳の黒目がちな瞳がしっとりと潤んだ。
「…お義姉様…」
そして凪子の美しい白魚のような手に己の小さな白い手を重ねる。

…美しいが、やや淫靡な香りがする妻と妹の光景に慎一郎は少し戸惑いながらも、そんな自分を一笑に付した。
「…まだまだねんねの子供に縁談は無理だろう。…では、この件は凪子さんにお任せする。…綾佳をよろしく頼むよ」
凪子は艶やかに笑った。
「はい。もちろんですわ。…綾佳さんが良いようにいたしますわね。…私に万事お任せくださいませ」
綾佳の縋るような眼を凪子は離さずに見つめ、夫に淑やかに答えたのだった。

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