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君が桜のころ

第1章 雛祭り

母は今際の際に、慎一郎と綾佳を呼び、冷たい手で慎一郎の手を握りしめた。
綾佳は母の臨終を悟り、自分も一緒に死にたいと泣き崩れ、まともに会話できるような状態ではなかった。

「…慎一郎さん、どうかお願いです。綾佳を頼みます…。この子をどうか貴方の側で何不自由ないよう庇護してやって下さい…私は綾佳をこのまま残してあの世に行くことだけが気掛かりでなりません…。どうか…どうか、綾佳に慈悲の心を向けてやって下さい…」
今際の際でも母は美しかった。
慎一郎はその美しさに見惚れながら母の手を握りしめた。
「分かりました。お母様、綾佳のことは私が責任を持って面倒を見ます。一生不自由な思いはさせません。ご安心なさって下さい」
母はその言葉を聞くと心の底から安堵したような笑みを浮かべた。
そして綾佳の手を握りしめると、学校に行かなくとも勉学とピアノは続けるようにだとか細々とした遺言を残し、最期まで綾佳のことだけを気に掛けながら他界した。
遺体に取り縋り、気が触れたように泣きわめく綾佳を見て慎一郎の胸は冷たく冷えていった。

…全く、泣いて済むなら楽なものだ。
女は気楽だ。
ましてや子供は何の責務もないからな。
慎一郎は泣き崩れる綾佳に一言の優しい言葉も掛けずに、その場を後にした。

この頃から九条家の家計は火の車だった。
女道楽の限りを尽くした父親はとうに亡くなり、浮世離れした母は家の経済など全く頓着なく、妹だけを溺愛していた。
当時、帝大の助教授だった慎一郎は大した給料を貰ってはいなかったから、所有していた山林や土地を売り払い、生活に当てるしかなかった。
困窮していても体面を保つ為に生活レベルを落とす訳にも使用人を整理する訳にもいかなかった。
そんな状況を知りもせず、ただ日々を嘆き続け、現実逃避する妹など疎ましいだけであった。

…しかし、慎一郎には綾佳を庇護しなくてはならない責任があった。
母と約束したからだ。

慎一郎は見合いの席で、凪子に改めて口を開いた。
「…凪子さんに聞いていただきたいことがあります。…私の妹のことです」
凪子は美しい柳眉をやや上げた。
「妹様?」
「…はい。私には年の離れた18歳になる妹がおります…」
慎一郎は妹、綾佳が離れに引きこもった経緯を包み隠さず凪子に話した。

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