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君が桜のころ

第1章 雛祭り

全てを話した慎一郎に対して凪子は、少しも表情を変えずにゆっくりと口を開いた。
「…綾佳さんのお写真はお持ちですか?」
慎一郎は革の手帳に挟んだままの家族写真を凪子に差し出した。
「…5年も前の…母が生前の時の写真ですが…」
慎一郎と母と綾佳…綾佳が華族女学校に入学した記念に屋敷で撮った唯一の家族写真だった。

綾佳は紫の矢羽模様の振り袖に若草色の袴を履いている。
髪には大きな薄桃色のリボン結び、嬉しそうに微かに微笑んでいるあどけない表情だ。
セピア色に化した写真だが、慎一郎にとってはなぜか鮮明に記憶に残っている家族写真だった。

「…まあ、なんてお可愛らしい妹様!」
凪子が朗らかな声を上げた。
「私はこんなにお美しいお嬢様を拝見したことがありませんわ」
慎一郎は驚いた。
凪子の口調には、綾佳の引き篭もりの生活の不安など微塵も感じられなかったからだ。
愛おし気に写真を眺める凪子の横から、父親の一之瀬彌太郎が写真を覗き込む。
「ほう!こりゃあ別嬪さんじゃあ!まるでお人形さんみたいな嬢ちゃんやのう。…こんな別嬪さんが引き篭もりちゅうのは勿体無い話じゃのう!」
彌太郎は感に耐えたように叫び、首を振る。
海運業から身を起こした彌太郎は未だに豪快な方言で話す。
それが妙に力強い自信となって伝わるような怪人物であった。

「凪子はこげん淑やかな娘やなかったき、羨ましか!」
彌太郎は無邪気に笑う。
凪子が父親を睨む振りをした。
「嫌だわ、お父様。慎一郎様の前で本当のことを」
父娘は顔を見合わせ一斉に吹き出す。

…この家の人は、綾佳の生活を不安に思わないのだろうか。気にしないのだろうか…。
慎一郎は戸惑った。

凪子は丁寧に写真を慎一郎に返しながら、静かな口調で話し出した。
「…慎一郎様、私は綾佳様のご生活など気にはなりません。…人は様々な経験をして人生を生きているのですから…」
「そう言っていただくとありがたいです」
感謝の意を述べる慎一郎を凪子は真剣な眼差しで見つめた。
「…慎一郎様が私に包み隠さずにお話くださったことに感謝いたします。
…ですから私もありのままにお話したいことがございます。…聞いていただけますか?」
慎一郎は凪子の黒曜石のように黒く澄んだ瞳に惹き込まれるかのように見つめ、頷いた。
凪子の紅い花のように艶やかな唇がそっと開かれた。


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