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君が桜のころ

第1章 雛祭り

慎一郎が帝大に出勤する時間になった。
いつもなら朝食を終えると逃げるように離れに戻る綾佳であったが、今朝はそうはいかなかった。
「ご一緒にお兄様をお見送りいたしましょう」
と凪子に有無を言わさずにその白く滑らかで美しい手に、手を握られてしまったからだ。
母屋の長い廊下を歩く間、綾佳は前を歩く凪子のすらりとした美しい後ろ姿をじっと見つめた。
凛とした背筋、長くほっそりとした優雅なうなじ、美しい曲線を描く細い腰…。
どれを見てもうっとりとしてしまう綾佳であった。
凪子の手はしっかりとしかし優しく握られている。
綾佳は思い切って凪子の手をぎゅっと握った。
凪子が振り返り、親しみを込めた表情で笑いかけてくれた。
それだけで綾佳は再び涙ぐみたくなるような幸福感に包まれるのだった。

広い玄関ホールを抜け、光る新型のメルセデスが停まる車寄せに、慎一郎が佇む。
一之瀬家の運転手が恭しくお辞儀をした。

「慎一郎さんは九条家の当主、公爵の称号をお持ちなのですから、たとえ大学にご出勤の時でもそれに相応しい形でお出ましにならなくてはなりませんわ」
そう慎一郎を説得し、凪子が一之瀬家から持ち込んだものは新型の舶来高級車とお抱えつき運転手であった。

内情が苦しい九条家では運転手を雇う余裕はなかった。
今までは毎日省線に乗り、本郷まで出勤していた慎一郎は戸惑った。
「凪子さん、そこまで一之瀬家にご負担をかけるわけにはいきません」
凪子は柔らかく首を振り、
「いいえ。…私がそうしたいのです。…お美しい慎一郎さんには美しくご出勤していただきたいのです。…私の我儘を聞いていただけませんか?」
と、夜の帳の中妖艶に口付けされ、何も言えなくなった慎一郎であった。

凪子は慎一郎に近づき、腕にそっと触れながらその頬に軽く欧米式のキスをした。
隣に立つ綾佳がどきまぎと目を伏せた。
「行ってらっしゃいませ。…お早くお帰りになってくださいね」
慎一郎の端正な顔が微かに紅潮した。
「…行ってまいります」
朝から妖艶な凪子に心惹かれながら、言葉を返す。
すると凪子に優しく促された綾佳が、小さな声で挨拶した。
「…お兄様、行ってらっしゃいませ…」
慎一郎は目を見張った。
綾佳が自分から挨拶するのは何年ぶりだろうか…。
慎一郎は驚いた表情をしながらも、頷き
「行ってくる」
と綾佳に挨拶を返した。


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