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君が桜のころ

第1章 雛祭り

翌日、綾佳は凪子に導かれるままに母屋の二階を訪れた。
ここに足を運ぶのは何年ぶりだろうか…。
綾佳はバロック様式の美しい装飾の天井や壁を見渡す。
母が亡くなってからは母屋は綾佳にとって所縁のない場所になってしまった。
…お母様が生きていらした頃はよく二階で遊んでいただいたりしたわ…。
あの頃、兄とは今より少し近しい距離を保っていたので、母屋で時折言葉を交わしたり、たまにフランス語の勉強を見てくれたりもしたのだ。
…お勉強中にお兄様のお美しいお顔を思わず見惚れて叱られたりしたっけ…。
綾佳は思い出し笑いをする。

凪子は相変わらず綾佳の手を握りながら廊下を歩く。
綾佳は、凪子の美しい白魚のような白い手を見ながら、いつまでも手を握っていたいと密かに願う。

今日の凪子は琥珀色の細身のドレスを着て、長い黒瑪瑙のネックレスをつけていた。
その白い首筋に朱を散らしたような紅い跡があり、綾佳はわけも分からずどきどきした。

凪子は夫婦の寝室を通り過ぎ、長い廊下の突き当たり奥の洋室に綾佳を引き入れた。
ここは母が若い頃に使っていた洋室だった。
今は使われていないので、家具もなくがらんとしている。
凪子はなぜここに自分を連れて来たのだろうと綾佳が不思議に思っていると、
「綾佳さん、このお部屋にお引越ししていらっしゃらない?」
と、凪子が微笑みながら振り返った。
唐突な提案に綾佳は驚き、眼を見張った。
「…え?わ、私が…このお部屋に?」
「ええ、そうよ」
凪子が改めて綾佳の手を両手で握る。
「あの離れもいいけれど、若い綾佳さんには少し物寂しいわ。…それにあまり陽当たりが良くないし…ねえ、見て?」
凪子が快活に綾佳の肩を抱き、綾佳を窓辺と誘う。
ガラス張りの白い漆喰の扉を押し開き、凪子は綾佳をバルコニーへと連れ出した。
初春の眩しい陽の光の中、見事な英国式庭園が見えた。
万事ヨーロッパ式に傾倒していた綾佳の父公爵が、贅を尽くして拵えた庭であった。
綾佳はその眩しさと美しさに息を飲んだ。
…お庭を眺めたのは何年ぶりかしら…。
「…素晴らしいお庭ね。さすがは名門九条公爵家のお庭だわ」
凪子が感心したように呟く。
そして
「…ね、こんな素晴らしい景色をご覧にならないのは勿体無いわ」
と綾佳に悪戯っぽくウィンクをした。
綾佳はおずおずと様々な常緑樹が美しく整備されている庭園を見下ろす。


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