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君が桜のころ

第1章 雛祭り

凪子はじっと綾佳を見つめた。
薔薇が描かれた濃い紅色の錦紗の振り袖に金糸銀糸で彩られた華やかな帯、薄桃色の半襟にも細かく薔薇が散らされ、帯留めにはエメラルド石が飾られている。
…本当に美しいお人形のような人…。

凪子が綾佳の部屋を訪れた時に、綾佳がいないところで乳母のスミに尋ねたことがある。
「綾佳さんは洋装はなさらないのかしら?」
スミは恐縮したように答えた。
「…はい…。奥様が亡くなられてからこの方、お嬢様は奥様のお着物だけを着ていらっしゃいます。…慎一郎坊っちゃまは、綾佳お嬢様に関心をお持ちではないので、お嬢様の装いにもなにも仰いませんので…」
「…そう…」
確かに慎一郎は綾佳に全く関心がないようだ。
…と言うより、どこか嫌悪している節がある。
もちろん、綾佳の身の廻りや本人に決して不自由はさせていないし、周りの使用人からも綾佳は九条家の令嬢として尊重され、大切にはされている。
しかし、関心がないゆえに綾佳の時が止まったような装いや、美しい檻に閉じ込められたままのような生活を変えようなどとは毛頭考えていないようだった。
慎一郎の綾佳に対する嫌悪感は、恐らくは綾佳を盲目的に溺愛していたと言う亡くなった母親にあるのではないかと凪子は推察していた。
息が詰まるような閉ざされた世界での美しく退廃的な母子の関係性に眉を顰めつつもしかし、慎一郎は美しい母親にひたすらに愛された綾佳が妬ましかったのではないか…。

「…けれど亡き奥様が所有されていたお着物は数限りなくございます。こちらのお部屋だけでなく他の衣装部屋にも…綾佳お嬢様がまだ袖を通されていないお着物もたくさんございますんですよ」
スミはやや誇らしげに、白い桐の箪笥を見せた。
ずらりと並んだ桐の箪笥は、かつて栄華を誇った名門公家、九条家の美しくも哀しい遺物のように凪子の眼には映った。

美しい所作で紅茶を口に運ぶ綾佳に、凪子は明るく話しかけた。
「…ねえ、綾佳さん。…お洋服を着てみない?」
綾佳の長い睫毛に縁取られた大きな黒目勝ちの美しい瞳が信じられないことを聞いたかのように見開かれた。


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