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君が桜のころ

第1章 雛祭り

その日の晩餐は急遽、春翔もテーブルに着くことになったが、綾佳はとうとう姿を現さなかった。
白いリネンがきちんとセットされたままの綾佳の席を見遣り、慎一郎は形の良い眉を寄せた。
「…また綾佳の我儘か…。凪子さんのお身内がいらしているというのに、なんと言う失礼な…」
凪子がすかさず綾佳を庇う。
「慎一郎さん、綾佳さんをお責めにならないで。…元はと言えば、春翔さんがいけないのですから。…急に来て綾佳さんを怖がらせるような真似をしたからですわ」
美しい瞳で春翔を睨む。
春翔も頭を掻いて見せた。
「慎一郎兄さん、凪子の言う通りなんです。…僕がいきなり綾佳さんの手にキスなんかしてしまったから…。だから綾佳さんを叱らないであげてください。ね?」
春翔が人好きする愛くるしい笑みを慎一郎に向けた。
慎一郎は苦笑する。
春翔は帝大の二年生。慎一郎の授業も取っているので教え子であり義兄弟でもあった。
春翔の華やかな美貌は凪子を彷彿させるところがありしかも人懐こい人柄なので、やや気難しいところがある慎一郎ですら、春翔にはつい心を許してしまっていた。
「君には敵わないな。凪子さんも…綾佳を可愛がってくださるのはありがたいが、あまり甘やかしては困りますよ」
義兄が凪子にめろめろだと言う噂は本当らしい。
普段、大学ではクールビューティーと異名を取る慎一郎が凪子を熱く見つめているのが春翔には驚きだった。
…さすがは凪子だ。
やんごとない貴公子を骨抜きにすることくらい赤子の手を捻るようなものだ。
春翔はそっと肩をすくめた。
…それよりも…
「…ねえ、慎一郎兄さん、綾佳さんはまだ社交界デビューはなさらないのですか?」
慎一郎は少し戸惑ったように歯切れ悪く答える。
「…そうだな…。…綾佳はあの通りの性格だし、この屋敷を出たことがないから…デビューは難しいだろうな…」
綾佳の性格もそうだが、九条家には綾佳を社交界デビューさせてやるだけの資金がなかったのだ。
しかし本来は社交界デビューしない令嬢はレディとは正式には認められない。
慎一郎にとって綾佳のデビューは頭の痛い問題であった。

凪子が控えめに口を開く。
「慎一郎さん、綾佳さんの社交界デビューの件は私にご一任いただけませんか?…もちろん費用も何もかも含めて…です」
慎一郎がすぐ様首を振る。
「…そんな…これ以上一之瀬の家のお世話になるわけには…」

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