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君が桜のころ

第1章 雛祭り

凪子は綾佳を護るように肩を抱きしめる。
「…可愛い綾佳さん、今度はきっとご一緒にまいりましょうね。パリ、ロンドン、ローマ、ベルリン、ウィーン…ああ、貴女をお連れしたいところがたくさんあるわ。…だから…笑って、綾佳さん。欧州で綾佳さんの泣いたお顔を思い出すのは嫌よ」
綾佳は溢れる涙をそっと絹のハンカチで押さえ、一生懸命笑った。
黒い瞳が涙で潤み、唇は茱萸のように赤く息を呑むほど美しい。
「…行ってらっしゃいませ、お義姉様…。時々、綾佳のことを思い出してくださいませね…」
小さな声で囁いた言葉の余りのいじらしさに凪子は綾佳を抱き締める。
「…毎日思い出すわ、大好きな綾佳さん」

慎一郎は驚いていた。
…あの病的とも言える人見知りの綾佳が、わずか一週間でこんなにも義姉に懐き、心を開くとは、予想だにしなかったことだ。
綾佳の凪子を見つめる目は母を見るような、憧れの人を見るような、そして恋人を見つめるような熱い眼差しであった。

…何はともあれ、凪子と綾佳の関係が良好なのは歓迎すべきことだ。
ことに凪子は綾佳をまるで実の妹のように可愛がり、愛情を注いでくれている。
慎一郎にとってお荷物に過ぎなかった引き籠りの妹を…。
それは僥倖とも言えることだった。

車寄せにフォードが止まった。
慎一郎は普段よりは少し、優しい声で綾佳に語りかけた。
「…身体に気をつけて、スミや麻乃の言うことを良く聞いて、元気に過ごしなさい」
綾佳は目を見張った。
他人が聞けばそっけない言葉だが、普段の慎一郎の言葉と比べると雲泥の差の優しいものだったからだ。
綾佳は嬉しそうに頬を染め、小さく答えた。
「…はい。あの…お兄様もご機嫌よう、行ってらっしゃいませ…」
慎一郎は頷くと、凪子を促しフォードに向った。

凪子は、まだ縋り付くような眼差しをした綾佳の手を握ると、
「…では、行ってまいりますね」
と行きかけて、無意識に凪子の手を離すまいと握り返されたのを見て取ると、再び振り向き綾佳の顔を革手袋を嵌めた手で引き寄せた。
「…寂しくないおまじないをしてあげるわ」
艶やかに微笑むと、綾佳の桜の花弁のように可憐な唇にその珊瑚色した美しい唇をそっと押し当てた。
「…あ…っ…」
綾佳が驚きの余り声を上げる。
「…ご機嫌よう、可愛い綾佳さん」
凪子はそのまま何事もなかったかのようにしなやかに慎一郎の元に歩いて行った。

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