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君が桜のころ

第1章 雛祭り

「どうして?…この間、綾佳ちゃんを驚かせてしまったお詫びをしたいんだよ。…ちょっと顔を見て、このタルトを渡して話せたらいいから、取り次いでよ。お願い!」
拝み倒す春翔に、皐月は困ったように答えた。
「…綾佳様の乳母のスミさんに堅く言われているのです。…綾佳様は男性の方は慎一郎様以外にはお会いにはなりませんと。
…私ですら、凪子様の侍女ということで、最近ようやくお話いただけるくらい、酷くお人見知りをされる方なのですから…」
「…へえ…」
「ですから、凪子様に綾佳様が大変に懐かれたこともスミさんは驚いておられますよ。…あんなに他人を慕われる綾佳様を初めて見たと…。まるで恋人を慕うようだと…」
春翔は形の良い眉を跳ね上げ、唇の端に笑みを浮かべる。
「…さすが凪子だな。男だけでなく女も簡単にたらし込む」
「春翔様!またそのようにお姉様のことを仰って…!」
皐月が窘めていたその時…。
東翼の奥の部屋から繊細なピアノの音色が聞こえてきた。
二人は同時に眼を見合わせる。
皐月が、思わず思い当たったかのように口を開く。
「…綾佳様だわ!…確か、ごくたまにひっそりと二階の音楽室のピアノをお弾きにこられるとスミさんが…。
…あっ‼︎ちょっ…‼︎春翔様!どこにいらっしゃるのですか‼︎」
皐月の最初の言葉を聞くや否や、ピアノの音色が聞こえる方にスタスタと歩き出した春翔を慌てて追いかける。
「お待ちください!春翔様!」
春翔はすらりとした長身の背中を見せたまま、大股で廊下を歩き続ける。
長い廊下の突き当たりが音楽室だった。
音楽好きだった先代の公爵が、音楽サロンを開く為に特別に設計した部屋だった。
防音設計にしてあるため、廊下を歩く音も人の囁き声も聞こえない。

どことなく哀調を帯びたピアノの調べが近づく。
…ショパンのノクターン第2番だ…。
春翔は自分でもなぜだか分からない高鳴る胸のときめきを抑えながら、ゆっくりと真鍮のドアノブに手を掛け、そっと回した。

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