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君が桜のころ

第1章 雛祭り

僅かに開いたドアの向こうにはまるで小さなコンサートが開けそうな重厚かつ洒落た空間が広がっていた。
ルネ・ラリックのシャンデリアが輝き、壁や室内などはアールデコ様式で設えられている。
象牙色の絨毯が敷き詰められた奥にグランドピアノはあった。

綾佳は丁度、入り口に半ば背を向けた形でピアノに向かっているので、春翔が佇んでいることに気づかない。
紅梅色の友禅振り袖には白梅が華麗に描かれ、白銀の格子の帯が締められた腰はほっそりと優美で、春翔は一眼で釘付けになる。
濃い朱色のリボンで結い上げられた黒髪は長く美しく、背中にさらりと垂れている。
…まるで美しいお人形みたいだ。
ピアノを弾く綾佳は夢見るような眼差しで、どこか遠くを見ているようだった。
美しい黒髪の隙間から垣間見られる桜貝のように可憐な色をした耳朶、長く濃くけぶるような睫毛、紅をさしていないのに紅梅のように色づいた唇、そして鍵盤を優雅に滑る白魚のように美しい指…。
…こんなにも綺麗な女の子が、本当にいたんだな…。

春翔は魂を奪われたように、綾佳を見つめていた。
ショパンのノクターンが甘く切ない旋律を奏でる。
…こんなに心に染み入るような曲だったのか…。
春翔の胸はずきりと痛んだ。

…と、常ならぬ何かの気配を感じたのか、突然綾佳が演奏の手を止め、恐る恐る背後を振り返った。
そしてドアの前に佇む春翔を見ると、眼を見開き声にならない悲鳴を上げ、スツールから立ち上がった。
春翔は慌てて綾佳に弁解をする。
「ご、ごめん!…あ、あの…!お、驚かすつもりはなかったんだ!…二階に上がったらピアノの音が聞こえたから…ついこの部屋に来ちゃって…あの…ピアノ、凄く上手だね。…こんなに上手い人は初めてだよ。…あ!ちょっと!綾佳ちゃん!」
じりじりと後退りする綾佳に春翔は思わず近づこうとしたその刹那…
「…こ、来ないでください…」
蚊が鳴くような、しかし頑とした拒絶の言葉が綾佳の可憐な唇から漏れた。
「あ、綾佳ちゃん!…あの…僕、君に此の間のこと謝ろうと…綾佳ちゃん!」
「…来ないで…お願い…」
綾佳はがたがた震えながら、部屋の奥まで逃げると小さな扉を開けて、あっと言う間に姿を消してしまった。
「綾佳ちゃん!待ってよ!」
扉はもう一つの階段に繋がっていた。
部屋の窓からは、離れへと続く渡り廊下を一目散に走り去る綾佳が見えた。



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