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君が桜のころ

第1章 雛祭り

綾佳は渡り廊下を未だかつてないほど全力で走り抜け、離れの自室に駆け込んだ。
扉を閉め、へなへなとその場に座り込む。

「綾佳様!お嬢様!いかがされましたか?何かございましたか⁈」
渡り廊下を血相を変えて走り抜ける綾佳を見かけたらしいスミが、心配そうに外から声をかける。
「…な、何でもないの…」
弱々しく答える。
「でも…随分慌てていらっしゃいました。…スミにお顔を見せてくださいまし」
心配性のスミは食い下がる。
「だ、大丈夫だから…!お願い、放っておいて!」
珍しい綾佳の大きな声を聞き、スミはさすがにこれ以上は踏み込めないと判断したのか、仕方なしに引き下がっていった。

綾佳はまだドキドキと早鐘のように音を立てる胸に手を当てる。
…誰もいないと思ったから、音楽室に行ったのに…。
…いつもは離れにあるアップライトのピアノばかりだったから…今日はちょっとグランドピアノで弾いてみたかったのだ。
それなのに…。
弾いているところをお義姉様の弟様に見られてしまった…!
私のピアノなんて下手なのに…!
しかも、動揺して狼狽える無様な姿をお見せしてしまった…!

弟様、何か仰っていたけれど頭が真っ白になって聞き取れなかった…。
また、私は失礼な態度を取ってしまった…。
お義姉様の弟様なのに…!

自分が不甲斐なくて、涙が溢れて来る。
…お兄様がご覧になっていたら、さぞお怒りになったでしょうね…。
「全く、お前は…。18にもなって挨拶の一つもできないのか。凪子さんの弟さんに対して、失礼極まりない。いつまでも子供で済むと思ったら大間違いだ」
美しい顔に冷たい表情を浮かべ、綾佳を見遣るその光景までもが思い浮かんだ。
綾佳の胸はずきりと痛む。

…お兄様は正しい…。
私は…何もできない…。
お兄様を不機嫌にするだけの厄介者だもの…。
…お義姉様…。
綾佳の脳裏に優しい笑顔を浮かべた凪子の美しい面影が浮かぶ。
…お義姉様も、いつかは私の至らなさに呆れてしまわれるのではないかしら…。
…お義姉様に嫌われたら…
私はどうしたら良いのかしら…。

絶望的な考えが次々に浮かび、綾佳ははらはらと涙を流しながらそのまま畳に伏し、瞼を閉じた。

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