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君が桜のころ

第1章 雛祭り

一見、賛辞に聞こえるそれだが、慎一郎の顔には笑みはなく…どこか苦いような鬱屈した表情を淡々と綾佳に向けていた。
春翔は不思議に思った。
…綾佳ちゃんのお母さんは慎一郎義兄さんにとっても実の母なのにな…。

綾佳はそんな兄の表情に慣れているのか、冷淡に背中を向ける慎一郎を寂しげに見送っていた。
「…さあ、綾佳さん。中に入りましょう。…貴女にたくさんお土産があるのよ」
凪子がさりげなく励ますように、綾佳の背中を撫でる。
「お義姉様…!」
綾佳は凪子の手を握り、凪子の存在を確かめるかのようにその美貌を熱く見つめた。
「…お義姉様が帰ってきてくださったことが何よりのお土産だわ」
凪子は笑みを漏らしながら、綾佳の柔らかな頬にキスをする。
「…本当に可愛い人…。逢いたかったわ、綾佳さん」
天使のくちづけのような軽やかな感触に、綾佳の心臓は甘く締め付けられる。
あの日の別れ際の唇へのキスを思い出す。
幾度も幾度も思い出し、眠れぬ夜を過ごしたあのキスを…。
「…お義姉様、綾佳もお義姉様にお逢いしたかった…ずっと…!」
その思いを込めて、綾佳は勇気を奮い起こし凪子の白磁のような美しい頬にキスをした。
頬を薔薇色に染めた綾佳を、凪子は艶やかな美しい瞳で微笑み返してくれた。
「…可愛いキスをありがとう、綾佳さん。さあ、まいりましょう」
二人は肩を寄せ合い、玄関ホールに入る。
先に入っていた慎一郎と春翔が大階段下の階段室に飾られている見事な美しい御所雛を眺めていた。
春翔が目を輝かせる。
「わあ…!凄く立派なお雛様だね!」
慎一郎が雛人形を見つめながら小さく呟く。
「…お母様のお雛様か…」

綾佳が遠慮勝ちに口を開く。
「…はい…。お母様がお嫁にいらした時に京都のご実家からお持ちになったお雛様です。…お母様がお亡くなりになってからは寂しくて飾る気になれなかったのですが…」
乳母のスミが後ろから、そっと言い添える。
「…綾佳様がどうしても凪子様に見ていただきたいと、飾られたのです。こちらのお雛様は江戸の御代に皇后様からご下賜いただいた由緒正しく大変に貴重なものでございます」
「…お雛様のお顔が…お義姉様に似ているのです…」
はにかむ綾佳の頭を凪子は優しく抱き寄せる。
「ありがとう、綾佳さん。こんなに素晴らしい歓迎は初めてよ」

…雛人形は桃の花影でひっそりと微笑んでいる。



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