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君が桜のころ

第2章 花影のひと

慎一郎がメルセデスに乗り込み、帝大に出勤するのを見送ると、凪子は綾佳を振り返る。
ようやく暖かくなった春風に綾佳の髪がふわりと靡く。
その髪の乱れを凪子が優しく直してやる。
綾佳は幸せな気持ちで一杯になる。

二人の元に、皐月がお辞儀をした後に告げに来た。
「奥様、そろそろお召替えをなさいませんと…」
「あら、もうそんな時間?」
凪子は華奢な白い手首に嵌めたロレックスに眼をやる。
綾佳はふいに不安に襲われ、おずおずと口を開く。
「…あの…お義姉様は、どちらかにお出かけになられるのですか?」
凪子はにっこり笑い、綾佳の手を取る。
「品川の実家に行って来るわ。…新婚旅行から帰国した挨拶をしなくてはね」
…そう…よね…。
お義姉様はまだご実家にお里帰りなさっていらっしゃらないのですものね…。
納得しながらも、綾佳の気持ちは寂しく萎んで行く。
今日はようやく凪子と二人で過ごせると楽しみにしていたからだ。
「…そうですか…。…あの、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
俯きながらも精一杯明るい声で呟く。
凪子はそんな綾佳をじっと見つめ、髪をかきあげてやりながら、
「…ねえ、綾佳さん。良かったら、一緒にいらっしゃらない?私の実家へ…」
と尋ねた。
綾佳の瞳が大きく見開かれる。
「…私が?お義姉様のご実家に?…む、無理です…そんな…」
慌てて首を振る。
凪子は優しく手を握りしめる。
「うちは成り上がりの家だから家族も気取りがないし、春翔さんもいるわよ。綾佳さんは私達の結婚式にお出にならなかったから、父もお会いしたがっているのよ」
綾佳は必死で首を振る。
「…わ、私なんか…無理です。…お義姉様のお家にお邪魔しても、きちんとご挨拶やお話も出来なくて、皆様を嫌なお気持ちにさせるわ…」
ふいに凪子が静かだが凛とした声で綾佳を窘める。
「綾佳さん、私なんかと仰るのはお止めなさい」
いつにない厳しい言葉に綾佳ははっと顔を上げる。
「…貴女はお美しくてご聡明で、気高くて、どこにお出ましになっても遜色のない…いいえ、貴女のように素晴らしい方は他にはいないほど完璧なご令嬢なのよ」
「…お義姉様…」
凪子は慈愛に満ちた眼差しで綾佳を見つめる。
「…だからもっと自信を持って欲しいの。
…亡くなられたお母様は綾佳さんがずっと引き篭もられてお過ごしになる事を望んでおられるかしら?」


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