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君が桜のころ

第2章 花影のひと

綾佳は凪子の言葉にはっとする。
母は亡くなる前に綾佳の手を握りしめ、こう言ったのだ。

「綾佳さん、私が亡くなったら貴女はどうなるのかしら…。大人しい貴女のこと、この屋敷に閉じ籠ってしまわれるのではないかしら…。お母様はそれがとても心配…。
貴女には誰よりも幸せになって欲しいのに…。
可哀想な綾佳さん…私が付いていて差し上げられなくてごめんなさいね…。
愛しい綾佳さん…愛しているわ…貴女は私の宝物だから…」
母は真珠のような美しい涙を流しながら息を引き取った。
綾佳にとって母は全てだった。
その母が亡くなり、世界は終わったかのように思えた。
それから暫くの記憶がなかったほどだ。
だから、母の遺言とも言うべきその言葉を今まで思い出せずにいたのだ。

…お母様は…私が屋敷に閉じ籠ることを望んではいらっしゃらなかったのだわ…。
凪子の一言で、そのことを初めて認識したのだ。

凪子は美しく白く良い香りのする両手で綾佳の顔を包み込む。
「…綾佳さん、私とご一緒に私の実家にまいりましょう。お外に出る第一歩の練習をしてみましょう。私がついているから怖くないでしょう?」
「…お義姉様…」
「…貴女がお嫌なら、あちらに行っても何もなさらなくていいのよ。私の側にずっといらしていいの」
…お義姉様はお優しい…。
本当は私のことなど放っておいてご実家を満喫されても良いのに…。
私のことを心配して、心を尽くして下さる…。
綾佳は凪子の限りない優しさに涙ぐむ。
そして小さな声で答えた。
「…はい、お義姉様…。ご一緒にお邪魔させていただきます…」
凪子のアーモンド型の琥珀色の瞳が喜びに見開かれた。
そして綾佳を思い切り抱き締める。
「嬉しいわ、綾佳さん。ありがとう、綾佳さん…!」
綾佳は凪子の肩に顔を埋め、首を振る。
「…いいえ、いいえ。お義姉様…。私の方こそ…ありがとうございます…」
…お母様、私、お外に出てみます…。少し怖いけれど…。
…でも…。
…お義姉様が大好きだから…。
…お義姉様のために…お外に出てみます…。
…お母様、私を見守っていてね…。
綾佳は瞼の母に語りかけたのだった。






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