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君が桜のころ

第2章 花影のひと

皐月から、綾佳が品川の凪子の実家に同行すると聞き、スミは声も出ないほど仰天した。
「…ほ、本当ですか?ほ、本当に綾佳様がお出かけになると仰ったのですか?」
俄かには信じられず、何度も皐月に確認する。
「はい、奥様とご一緒なら…と。今、お支度をされています。…スミさんも是非、お側に…あら…」
スミはぽろぽろと涙を零し、着物の袂で目頭を押さえる。
「…ごめんなさい…皐月さん。…綾佳様がこのお屋敷からお出になる日が来るなんて…しかもご自分で納得されて…。…感激で胸がいっぱいになりました…」
「…スミさん…」
皐月は優しく、スミにハンカチを渡す。
「…綾佳様はお気の毒なお嬢様でしてね、
最愛のお母様を亡くされて4年…一歩もこのお屋敷の外にお出になることはありませんでした。私どもがどんなにお勧めしても、首を振られるばかりで…。慎一郎様は…ご相談申し上げても、本人が嫌がるなら仕方がないと仰せられて…。
あんなにもお美しいお嬢様なのに、あたら花の時期を無為に過ごされるのかと切ない思いでいたのでございます。
…それが…凪子様がいらして、綾佳様は本当に毎日別人のようにお楽しそうで…。お義姉様お義姉様と慕われるご様子は、まるで亡くなられたお母様を想われているようです。
その凪子様のお陰で、今度はお出かけになられるなど…。
亡くなられた奥様はどんなにお喜びになられていることでしょう…」
確かにスミの喜びは分かると、皐月は思った。
皐月もこの屋敷に入り、綾佳を初めて見た時、この世のものとは思えないほどの美しさと可憐さに驚いた。
此れ程の美しい姫君がひたすら暗い離れにとじ込もっているのは何とももったいないと思ったのだ。
やんちゃで女性には不自由しない春翔が、すっかり綾佳に夢中になってしまったのも納得出来た。
…しかし、当の綾佳は凪子に熱愛と言っても良いような感情を持っているようだ。
凪子を見つめる眼は正しく恋する者の眼差しだ。
しかも、熱く激しい恋の眼差し…。
それにまだ気づいたものは、恐らくはいないだろう。
…私と…凪子様以外には…。

皐月は、ふっと物思いから立ち還り、まだ涙ぐんでいるスミに明るく声をかける。
「…さあ、綾佳様の初めてのお出かけが成功するようにご一緒にお手伝いしにまいりましょう」

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