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愛してるって言って!

第1章 【酒と男と双子の弟】

静矢は、日本画が好きだった。と言っても、別に絵画が好きなわけではなかった。昔から母親は趣味で油絵を描いていたが、それに興味を持った事は一度もない。その画風や、もっと言えば見慣れた油絵自体も、静矢はあまり好きではなかった。美術館でどんな有名な絵を見たとしても、退屈で退屈で仕方なくなって、欠伸が止まらなくなるので、自分は芸術とは相容れない存在なのだと静矢はずっと思っていた。
だが、ある日、母親に連れられて行った日本画の展覧会で、静矢は初めて絵を見て感動した。それが、速水御舟の『炎舞』という作品だった。そこには、闇の中で燃え上がる炎と、それに誘われるようにして宙を舞う、蛾の様が描かれていた。そこへ触れれば、灼けて灰になってしまうというのに、それでも炎に群がる蛾の姿は、まるで本能に従っているかのようだった。
それからというもの、すっかり日本画に魅せられ、美術館へ行く事を密かな趣味としていた静矢は、大好きな画家の作品が、そこにある本の表紙になっている事に、つい反応してしまったのだった。
「ごめん、急に…」
思わず手を取ってしまったと、静矢は慌てて謝ったが、茜は全く動じず、にこっと笑った。
「速水御舟が好きなの?」
「日本画がわかるのか?」
「少しね。速水御舟くらいは知っているわ」
静矢は、純粋に嬉しかった。同年代の友人で、速水御舟の絵が好きだと言って、その話がわかる者は一人もいなかったし、絵画鑑賞が、しかも日本画を鑑賞するのが趣味、というのは、まだ大学生の静矢にはほんの少し恥ずかしく思えてしまって、なかなか他人には言えない事だった。
その日を境に、茜と静矢の距離は急激に近づいていき、二人が恋人同士になるまで、時間はさほどかからなかった。
それまで飽きる事もなく、忍の部屋に遊びに来ていた静矢は、だんだん茜に会いに来る事の方が多くなり始めた。忍もまた、その頃から二人に遠慮してか、静矢が来ると決まって外へ出かけるようになった。忍は、恋人として付き合い始めた静矢と茜を祝福してくれていたが、まるでそんな二人に反比例するように、静矢と忍の距離は遠くなっていった。
茜の不思議な魅力に、静矢は心底惚れ込んでいた。今となっても、茜との恋は大恋愛だった、と思い出す事ができる。
大学を卒業し、就職してから三年、静矢は茜にプロポーズをし、結婚した。静矢は二十五歳、茜は二十三歳だった。

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