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花と時計

第3章 微睡み


私は大きく息を吸って、幸せのため息をついた。
小学生の頃に読んだ小説だけれど、当時とは全く感慨深さが違う。

この何ともいえない余韻も。


私は椅子に背中を預けた。
放課後の誰もいない教室は、滅びた星のように静かだ。



「依子ちゃん」



ふいに名前を呼ばれて、教室の引き戸の方を見ると、夢咲先輩が立っていた。

「せ、先輩!」

慌てて立ち上がった私は、持っていた文庫本を落とす。

それをクスクスと笑いながら、先輩は私に近付くと、落とした本を拾って、表紙に視線を落とした。

「暗乃雲だ。
依子ちゃん、好きなの?」


先輩が暗乃雲をご存知だなんて。


本を受け取りながら、私は大きく頷いた。

「せ、先輩も、お好き、ですか?」

「まあね」

彼は何気なく答えた。
だけど、それは私にとって、世界がひっくり返るほど、嬉しいことだった。

暗乃雲のファンは多いけど、一部のコアな層に密集している。
だから、なかなか、読者にもファンにもすれ違うことはない。

それが、まさか、こんなに身近にいたなんて。

「感激ですっ!」

興奮する私とは対照的に、先輩は私の席の隣の机に座り、呆れたように笑う。

「そんなに?」

「そんなにです!
レアなファンがまさか先輩だったなんて、これはもう運命です!」

ふっと吹き出したのは先輩だった。
笑いはすぐに収まらず、お腹を抱えだす始末だったから、私は途端に恥ずかしくなって、後退りながら椅子に座った。

「ご、ごめんなさい。
つい、興奮してしまって」

「いやいや、あははっ、そうだね、運命だ」

ようやく笑いが収まった先輩は、はぁ、と、ため息をつきながら、目尻を指先で拭う。

猫のような瞳が濡れたまま、私を窺うように上げられて、私の心臓は跳び跳ねた。

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