触って、七瀬。ー青い冬ー
第1章 七瀬夕紀の感傷
「あとこれ」
高梨はパンダの絵がついた飴玉を出した。
「授業料」
子供っぽい飴玉をもっている高梨は少し面白かった。あまりにミスマッチで。
「やっす」
「馬鹿、子供にとっては500円くらいの価値あるからな」
「そうかな」
飴玉を受け取ると、パンダは笹を食べていた。
「次はもっといいのやるよ」
「ありがとう」
高梨はやはり気さくだった。
僕は飴玉をポケットにしまった。
それを握りしめたとき、少し嬉しかった。
でも、少し悲しかった。
…
「ただいま」
「どうしたの、その怪我」
「ちょっと…転んで」
「そう、気をつけるのよ」
「はい、すみません」
僕はあの時泣いていなかっただろうか。
母は気づかなかったのだろうか。
それとも、僕が気づかなかったのだろうか。
…
「ただいま」
飴玉を握りしめたまま家に帰ると、家には誰もいなかった。
僕は階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
ベッドに倒れこんで、今日起こったことは夢じゃなかったのだと確認した。
「嘘だ…」
高梨は、僕は意外と人間っぽい、と言っていた。
僕はふつうに会話をできていたみたいだ。
あんなに普通に自分の口が動くなんて、
当たり前なのにすごく不思議だった。
特に高梨の前では。
「綺麗な手…」
ピアノを弾いている高梨はいつもとは違って、繊細な表情をさらけ出していた。
隣に座って一緒に練習した時は、
正直すごく緊張した。
でもすごく楽しかった。
『次はもっといいのやるよ』
飴玉を見た。
これだけでも十分すぎると思った。
次もある、ってことだよな。
それにしても、一体なんのコンサートなのだろう。
高梨がピアノを弾けるなんてことも初めて知ったけど、コンサートなんかに出るほどだということも初めて知った。
今日は高梨と何度目があっただろう。
今日は…今日は。
今日こそは。
そう思った途端、帰り際の高梨の言葉を思い出した。
《じゃ、今後もよろしく、先生》
高梨の笑顔が浮かんだ。
だめだ、今日は…
今日も、夜は長かった。
*