触って、七瀬。ー青い冬ー
第5章 葉山秋人の背徳
「こんばんは」
重厚な扉。
カンカン、と獅子の顔の下についたドアノッカーを叩いた。
「…おかしいな」
この家のお坊っちゃん、夕紀は私の生徒だ。彼を5歳の頃から見てきているが、彼には才能があった。
私の妻はこの家の亭主の妹で、妻を通じて、夕紀を見てくれないかと、父親から依頼があった。
私も夕紀と同じように幼い頃からピアノを弾いていた。しかし、それは独学だった。
年齢が上がるにつれて難解な曲に挑戦することが増えたが、楽譜を読んだだけでは簡単には弾き方がわからないことも増えた。
レッスンを受けたいと親に頼んでも、私の趣味などに費やすほどの経済的余裕はないと、断られた。
そんな中でも、私はピアノを続けた。
そして、いつか先生として生徒に教えたいと思った。高いレッスン料なんて取らない、どんな生徒でも受けられるということをモットーに。
しかし夕紀にはそんな心配はなかった。
こんなに裕福な家庭で育ち、才能も持ち合わせ、完璧なキャリアを持つ両親に英才教育を受け、その人生はまさに薔薇色だったろう。
…そう思っていたのは、夕紀に会って間もない間だけで、すぐにそれは違ったと気づいた。
夕紀は恵まれていた。
しかし、幸せではなかった。
彼は僕を慕っていた。少し演奏を褒めてると、とても喜んだ。
喜んだとは言っても、少し恥ずかしそうに笑顔を見せるだけだ。
しかしそれが彼のできる精一杯の感情表現だったのだろう。
《葉山先生、まだ帰らないで》
まだ幼い頃は、夕紀はよく駄々をこねて私を引き止めた。
なんて面倒な子だろう、なんて思ってた自分が馬鹿だった。
夕紀はいつも《良い子》だったのだ。
両親の前では演じていたのだ。
しかし、私のレッスンには両親は来ない。
このレッスンが彼にとって救いの時間だったに違いない。
…それなのに、中学生になった近頃から、
彼は私にすら心を閉ざし始めた。
《今日はお帰りください》
夕紀はいつもそんな風に、冷たい声で言った。
何故そうなってしまったか、心当たりはあった。
私が彼にしてきたことがその原因だろう。
彼は成長するごとに魅力的になっていった。
冷めていて大人びた影のある目と、それに反して若く張りのある雪のように白い肌。
決して派手ではないが、母親に似て上品で美しい顔立ち。