触って、七瀬。ー青い冬ー
第5章 葉山秋人の背徳
「そうなんだ。その子って、例のサキちゃんかな?」
夕紀に友達がいなかったわけではないし、
よく一緒に《サキちゃん》と遊んでいた。
レッスン後に家の前にサキちゃんがいることがよくあって、私も顔見知りになっていた。
同い年の友達というからその子か、と思っていたが、どうやら違うようだ。
「サキちゃんじゃなくて、名前も知らない子」
夕紀は言いながら、楽譜をピアノの上に置いた。
「凄かったんです。
その子は教会のピアノで練習させてもらっているらしくて、この間教会に行った時、ちょうどその子が弾いてたんです」
私は、饒舌な夕紀に驚いた。
いつものおとなしさはどこに行ったのだ。
「本当は賛美歌を練習しなきゃいけないんだけど、その子はその曲が大好きで、たまにこっそり弾くって」
夕紀の家の近くには教会があった。
よく、パイプオルガンの音が聴こえてきた。そして、歌声やピアノの音も。
「教会で?聖歌隊か何かの子なのかな」
「多分、そうです。ピアノも歌も上手だったから」
夕紀はそう言ったが、夕紀自身、ピアノがとても上手だった。始めて一年目で、地域のコンクールで入賞した程だ。
夕紀はコンクールが嫌いで、もう出場はしないと言って、両親はとても残念がった。
そんな夕紀をここまで言わせるその子は、どんな子なのだろう。
「そんなに凄い子なら、ぜひ聴いてみたいな。だけど名前もわからないんじゃ…。
どうして聴いてこなかったの?」
「…」
夕紀は俯いた。
何も言わずに黙っていた。
「夕紀君?」
「教えたくないって…」
夕紀はピアノの前に座った。
「でも、僕がこの曲を弾けるようになったら、教えてくれるって」
それから夕紀はその曲を練習し始め、
1ヶ月もすれば完璧に弾けるようになった。
しかし、夕紀はその後、その子について語ることはなかった。
名前を教えてもらえたか、その後再会したかさえわからない。夕紀は頑なに話そうとしなかった。
夕紀が月の光を弾くこともなくなり、
自分から楽譜を持ち込むこともそれ以降、一度もなかった。