触って、七瀬。ー青い冬ー
第5章 葉山秋人の背徳
「…でも、いじめてくれるんでしょ」
夕紀はきっと酔った勢いでこんなことを言ったのだろう。
夕紀は痛がった。
…
月の光。
最初はとても静かで、その寂しさが華やかだ。
「もっと指先を柔らかく使って」
夕紀は、突然この曲を弾きたいと言って私に楽譜を見せた。
ちょうど7歳くらいの頃だった。
「葉山先生、僕に弾けますか」
夕紀が楽譜を持ってくることは初めてだった。いつもは、弾きたい曲があるかと聞いても、『特にありません』なんて、味気ない返事ばかりで、私が選ばざるを得なかった。
でもその時の夕紀はとても熱心で積極的だった。人が変わったようだった。
夕紀は元々、ピアノが弾きたくて弾いていたわけではなかった。
直接本人からそう聞いたのは中学生になってからだったが、ピアノを始めたのは両親の強い勧めが理由だったそうだ。
夕紀は良い子だ。だから両親が言えば従う。いや、もしくは反対に、悪い子であることを、従うことで隠そうとしていたのかもしれない。
夕紀は悪い子でもないし、良い子でもない。人に良いも悪いもないのだ。
ただ、夕紀は良い子であることにとても執着していて、そうあることが彼の使命であるようにさえ見えた。
「練習さえすれば、弾けない曲なんてないんだよ。夕紀君」
私は、夕紀の頭を撫でた。
「じゃあ、教えてもらえますか」
夕紀は嬉しそうに言った。
「どうしてこの曲を選んだのかな?」
夕紀は何故この曲を弾こうと思ったのだろう。良い曲で、愛されている曲ではあるが、夕紀をここまで動かしたのはなんだったのか、見当もつかなかった。
何せ、夕紀はそもそも弾くことに興味がなかったのだから、どれだけ良い曲であって、好きな曲であったとしても、《弾きたい》と思うのは難しい。
やはり、夕紀が弾きたいと思ったのは、単にその曲の芸術性だとか曲調に惹かれたからではなかった。
『僕、同い年の子がこの曲を弾いているのを聴いたんです。』