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幸せな報復

第19章 畑野浩志の観察

 彼女は体の力が抜けるようにその場に両膝をついてしゃがみ込んだ。教室で浩志の体臭を初めて嗅いだときと全く同じ症状だった。電車内で勘太郎に体を触られたときも、気が付かなかったが勘太郎の匂いを嗅いだせいなのかも、と恵美は思った。
 恵美は浩志に手を握られ動けなかった。空手家の彼女にしてみれば握られた手を利用し相手を投げ飛ばすなんて簡単なことだった。しかし、この時、彼女の思考は止まっていた。勘太郎のときと全く同じ。脳と全身の筋肉が弛緩し動けない。体が避けようとしなかった。
 彼女はゆっくり浩志に顔を向けた。目の前に自分をじっと見つめる浩志の顔があった。
「う、嘘でしょぉー 浩志くん、顔が近すぎよぉー わたし、狼にこれから食べられてしまうのぉかなぁー どーーしましよぉーー」
 恵美は浩志の真剣なまなざしを見つめながら心中で喜びの声を上げていた。彼女の大きな心拍音が全身を振動させていた。彼女は暴漢者を投げ飛ばすどころか彼女の心はまるでフワフワ、意識はウキウキ、全身を駆け巡る高揚感であふれていた。
「浩志くーーーん、あぁーあたしの手を握っちゃってるよぉー どーしたのぉー? こんなことして…… ねえ、どうしたのぉ? やっとわたしに痴漢したくなったのねぇ…… もう、わたし死んでもいいわぁーー」
 恵美は夢心地で浩志をぼんやり眺めていた。彼女は浩志の顔を見つめていたが急に真顔になった。
「う、嘘よ、今言ったこと、嘘だから…… ここまできて…… 死にたくないわぁー やっと始まりにたどり着いたのよ、わたしの妄想はきょうでおしまい」
 心中でうれしくて絶叫していた恵美は、次の浩志の行動を待ち望んだ。
「ねぇ、浩志くん、わたしをこの後、どうするの? 二人きりだもの、もしかして…… 当然のようにあれをしちゃうのかなぁーー?」
 彼女の潤んだ眼差しが浩志の目を見つめた。
「ああ、ごめん…… どうしたのだろう…… きみが母さんに見えた…… 母さんの思い出は記憶していないのだけど、変だよね、自分でも変だと思う……」

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