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幸せな報復

第5章 落ちたカバン

 彼はネームプレートを彼女の体を探りようやくスカートから外せた。それを胸ポケットにいつものように納めた。彼は額に冷や汗をかいた。それでも、彼は痴漢行為にならないすれすれの難事業を終えて安堵し息をはいた。不覚にも左手でつかんでいたカバンの取っ手をなぜか放してしまった。彼は思わず「あっあーー」と声を出したが後の祭り。足の甲に軽い衝撃を感じた。カバンが足の甲の上に落下したのだ。彼はどうやってカバンを拾うか考えた。腰を曲げてかがんで取ればいいことであるが、今は混雑していてかがめる状況ではない。
 ことを難しくしているのは対面に彼女がいて、周囲を他の乗客に押され、彼女と密着状況だ。先ほどのネームプレートを回収するのでさえ、右腕を動かし回収するので彼女に不快な気持ちを与えないよう気を使って大変だった。彼がいつもの冷静な彼であったならネームプレートのときのような不審な行動は取らないのだが、彼は仁美に似た人物を目の前にして、それも体を密着させ完全に冷静さを失っていた。つまり、「僕ーー 舞あがってしまったーー」の状態であった。
 一応、「冷静になれ」と言い聞かせてから彼はかがんでカバンに手が届くか試してみる。少しずつ、腰を落としていくと彼女のおでこに当たっていたあごが首筋に到達した。周囲に人がいるから腰が後ろに引けない。彼女の肩を超え口元が彼女の後ろの首筋に降りた。だから、彼の口が彼女の首筋の後ろにあった。そんな格好で、彼は左腕を伸ばしてみた。カバンの柄に人差し指が届いた。思わず、やった、と心中で叫んだ。しかし、届いただけだ。柄をつかまなければ拾い上げられない。そのためには指の先から第2関節まで体をさらに下げる必要がある。わずか3センチメートル下げるだけだ。
 これ以上、体を落とすと今ある彼女の首筋からさらに下がった胸に顔を近づけることになる。まずい体勢のような気がするが、かがまないと取れない。彼は考えていたが、彼女に再度、頼むしかないと判断した。彼は申し訳なさそうに彼女の首筋で言葉を発した。
「す、すみません、ネームプレートを取ることに気を取られ、うっかり握っていたカバンを落としてしまいました。ほんと、ドジですみません。カバンが足のすねあたりにあるみたいです……」

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