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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第6章 祝言の夜

  祝言の夜

 春(チユン)泉(セム)はもうかなり前から、じっとその場に立ち尽くしていた。時間にしてみれば、たいした刻(とき)ではなかったかもしれない。何しろ華やかなだけの空しい祝言を挙げ、列席者は広間に移っての賑々しい祝宴となった後、あたかも厄介払いされるように花婿花嫁は別室へと追いやられてから、わずかな刻しか経ってはいない。
 今宵の主役である二人を送り出す列席者から冷やかし半分の〝首尾良くやれよ〟と声援が飛ぶ中、春泉は乳母の玉彈(オクタン)に付き添われ自室へと退がった。
 複雑な形に結い上げた艶(つや)やかな黒髪には幾つもの宝玉をあしらった見事な簪が挿してある。その一つ一つを丁寧に抜き取り、解いた髪をオクタンが愛情を込めた仕種で梳(す)いてゆく。
 それから改めて横で一つに纏めた髪を編むと、今度は化粧を直そうとするのに、春泉はそっと首を巡らせた。
―化粧は直さなくて良いわ。
―でも、そのようなわけには―。
 言いかけたオクタンに対して発したのは、我ながら愕くような尖った声だった。
―良いって言ってるでしょう。
―申し訳ございません。
 謝られて、春泉はハッと我に返った。
―私の方こそ、大きな声を出してしまって、悪かったわ。
 オクタンの眼には困惑したような、春泉を憐れむかのような色が浮かんでいる。その様を見つめていると、春泉は余計に苛々としたもどかしさをかきたてられた。
―どうして、そんな眼で私を見るの?
 明らかに苛立ちを滲ませた声音にも、この乳母は臆することなく優しい笑みを浮かべる。
―春泉さまがお生まれになったときから今までのことを思い出していたのですよ。
 そう、春泉にとっては、この心優しい乳母だけが〝身内〟と呼べる近しい存在であった。だからといって、春泉が天涯孤独というわけではない。
 春泉の父はこの都漢(ハ)陽(ニヤン)、いや朝鮮でも名の知られた辣腕の商人であった。しかし、父柳(ユ)千福(チヨンボク)は二年前、手練れの刺客に殺害された。父は儲けのためなら、人殺しさえ躊躇わない冷酷さがあった。父が〝人の生き血をとことん吸い尽くす蛭のような男〟だと囁かれていたと知っても、春泉は少しも愕かなかった。

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