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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第8章 夫の秘密

 大きな背中が遠ざかってゆく。同じ屋敷に住み、こんなに近くにいながら、今、秀龍は春泉にとって地の果てよりも遠くにいる。
 仕方のないことだ。何かも、すべて自分が招いたことなのだから。
 私、また、あの人を傷つけてしまった?
 こうして冷静になってみると、傷つけるつもりはなかったのにと、烈しい後悔が押し寄せてきた。
 汚いだなんて、言わなければ良かった。
 小虎が威嚇するように秀龍に向かって吠えた時、彼は何がおかしかったのか、突然笑った。いや、どう考えても、あれは、面白おかしいと感じた笑いではない。むしろ、ひどく淋しげな、虚ろともいえる笑い方のように思えた。
 元はといえば、今回も、きっかけを作ったのは秀龍の方だ。秀龍が唇を奪おうとしたから、春泉は咄嗟に顔を背け、彼を拒んだにすぎない。彼があんなふるまいをしなければ、二人が今夜、気まずくなるようなことはなかったろう。
 だとしても、〝汚い〟は幾ら何でも酷いし、失礼ではないの?
 心の声がどこかから聞こえてくるようだ。
 いいえ、私は悪くないもの。
 春泉は、その声に思いきり応えてやる。
 でも、〝汚い〟と言葉を投げつけたときの秀龍はとても辛そうに見えた。
 すべての責任は秀龍にあると思いながらも、やはり、一抹の自責の念は拭えない。何より、秀龍の苦しむところは見たくないと思うのだ。
 ニャー。ふと脚許を見ると、小虎が頭をチマにこすりつけていた。
 春泉は微笑み、小虎を抱き上げた。
「さっきはありがとね。お前には、いつも助けて貰ってばかり」
 春泉が喉を撫でてやると、小虎はグルルと気持ち良さげに喉を鳴らした。春泉の指が当たって、オクタンのつけてやった首の鈴がチリリと愛らしい音を奏でる。
「私はもう、ここにいない方が良いのではないかしら。私がここにいても、何もすることはないし、できることもない。かえって秀龍さまを苦しめるだけなの」
 これ以上、傷つくあの男を見ていたくないから、自分は皇家を去った方が良いのかもしれないな、その時、初めて春泉は思った。

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