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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第11章 男装女子

 廊下には人影もなく、森閑と静まり返っていた。まるで廓全体が無人ででもあるかのように人の気配がない。今が昼間であることを考えれば、妓生たちが客と戯れる時間にはいささか早すぎることくらいは、世間知らずの彼にも判る。
 恐らく妓房が廃墟のようにひっそりと静まっているのも、まだ遊廓が賑わう時間ではないからなのだろう。若者は小さな吐息をつき、元どおりに扉を閉めた。部屋を横切り、予め運ばれていた小卓を眺める。登楼してほどなく、女中が持ってきた小卓の上には、様々な酒肴が居並んでいる。
 酒はむろんのこと、大根のキムチや、青菜を炒めたものなど色々あり、見た目も品良く盛られていて、美味しそうだ。
 しかし、彼は箸を取る気にも、ましてや酒を呑む気にもならなかった。従って、小卓の折角の酒肴にはいまだ手付かずのままである。
 元々、彼は酒が苦手なのだ。いや、苦手というより下戸といった方が良い。体質的なものなのかどうかは知らないが、身体が酒を受けつけないのだ。無理に飲めば、忽ちにして吐いてしまう。
 これで何度めの溜息か判らない盛大な吐息を洩らしたまさにその瞬間、扉が音を立てて開いた。
 彼―若者はビクリと身を竦ませ、それから慌てて我に返り、正座をすると威儀を正すかのように、背筋を伸ばした。
「い、忙しいところを申し訳ない」
 天下の傾城を相手にしても、卑屈にもならず、さりとて、あまり偉そうにしすぎても、気難しい香月の機嫌を損ねる怖れがある。その辺はごく自然に鷹揚にふるまおうと心がけてきたものの、いざ香月を前にすれば、まるで赤児と大人ほどの貫禄の差は歴然としている。
 この若者、どう見ても、両班の坊ちゃんで、いかにも世間知らずといった憂き世離れした雰囲気が漂っている。天下の傾城に逢うために、かなり気張ってめかし込んできたのは判るが、哀しいかな、あまりその努力が報われているようには見えない。
 黄金色のパジチョゴリはいささかきらびやかすぎて、純朴そうな彼の雰囲気には全然合っておらず、まるでアヒルが王さまの龍袍(りゆうほう)(正装)を着たように滑稽だ。
「こちらが皇秀龍さまのご友人?」
 いきなり訊ねられ、彼はハッと息を呑み、慌ててコクコクと頷いた。

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