触って、七瀬。ー青い冬ー
第10章 夜明けの水平線
「それで、伊織はその子とどうしたかったの?」
千佐都はこの話題にとても関心があるらしい。
「もし、ななせゆうきが本当に女の子だったら」
「七瀬がもし女の子だったら?」
どうしたかった?
俺はその子が教会に現れなかった事がずっと心残りで、あの子は今、月の光を弾けるのか、どこで何をしているのか、まだピアノを続けているか、まだピアノは好きじゃないのか、
それだけが気になっていた。
「そう聞かれると分からない」
今日の空は曇っていた。
「でも」
飛行機は見えない。
「ただ、会いたかった」
あの頃、俺はまだ両親の元で平和に暮らしていた。
兄貴もいて、二人で仲良く公園で遊んでいた。
海辺にあった家は、とにかく海の香りがして、それが大好きで、安心して、幸せで、家族みんながいた。
ただそれだけで良かったのに、どうして。
そういつも思う度に、あの子を思い出した。
たった一度しか会わなかったあの子は今、どんな暮らしをしているかと思った。
俺の平和な世界は消え、家族団欒の時間も消え、残された俺と兄貴は冷たい雨にさらされ、この先の人生に絶望していた。
でも、あの子との約束だけは、まだ、あの頃のままだった。
《これ弾けたら、教えてあげる》
その約束だけは、記憶の中で、変わらないまま残っていた。
涙目だったあの子は、どうしてピアノが嫌いなのかな。
それなのに、なぜ俺の名前を知るためだけに弾こうとしてくれていたのかな。
俺には音楽しかなかった。
両親も、帰る家も、母親の朝食も、
怒鳴る父親も、何一つなかった。
教会で祈りながら、両親を返して欲しいと願った。
でも、神は俺を救ってはくれなかった。
母が信じていた神は、残酷だった。
でも、音楽は俺を救った。
麗子さんにも、ピアノを教会で弾いている時に会った。