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触って、七瀬。ー青い冬ー

第10章 夜明けの水平線



「君は何も悪くないよ。
全部私が悪かったんだ。
最初から、全部。

まだ子供の君に、
大人の私が手を出してしまった」


先生は自嘲するように笑った。


「最後の最後に、私は本当に馬鹿なことをしたよ。生徒の君にすることじゃない」


先生のキスは苦しかった。
してはいけないと分かっていて、
それでもしてしまう先生の苦しみが、
唇を伝わって僕の息まで止めてしまう。


「私は殴られて当然の事をしたんだ。
君が謝る必要はないよ。
謝るのは私の方だ」

僕は首を振った。


「謝らないでください」


先生はまるで、最期の言葉を残すように言った。


「ごめんね、夕紀君」


先生はもう二度と僕に触れないと言った。

二度と僕に手を触れないと。


「先生」

「私はもう先生じゃないよ、夕紀君」


僕は先生の暖かい手を握っていた。




「秋人さん」




僕は先生の手が好きだった。


人と会った時、手を見るようになったのも先生の手を知ってからだ。



先生のように優しい手が、果たして他に存在するのだろうかと、いつも無意識に探していた。




僕の馬鹿な初恋も、冷たい、あの綺麗な手を見たときに始まった。






「私のせいでピアノが嫌いになったんじゃないかと、いつも後悔していたよ」


僕は先生から離れようとしていた。
だからピアノもやめ、レッスンもやめた。


「確かに、僕はピアノが好きじゃなかったけど、それは先生の…
秋人さんのせいじゃありません」


「やっぱり、好きじゃなかったんだね」


先生は少し悲しそうに笑って言った。


「はい。
でも、僕は、ピアノを弾いていて本当に良かったと思ったんです。

心の底から。」



《ピアノ、弾けるだろ》


《誰がピアノは嫌いだって?》


《お前、才能あるから》




ああ、思い出すのはあの人の声ばかりだ。

僕は本当に馬鹿だ。

…馬鹿だ。






「それで、

本当は、ピアノが好きだったって、

気づいたんです」




もう寒くない。
先生の暖かい手。





「長い間、気がつかなかったけど」


10年以上もの長い間。



「…大好きで、あの音が」


川のように流れる音の波が。


「あの曲が」



月の光に涙した、いくつもの夜が。



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