触って、七瀬。ー青い冬ー
第19章 夢色の雨
くす、と笑う声がした
「心が痛みますか?」
…なんだその嬉しそうな顔は。
餌を貰った犬と大して変わらない喜びようだ。
何をどうしたって
理解しえない人間がこの世に一人はいる。
だいたい、婚約を破棄してサキちゃんが一人になったとしてこいつになんの利益があるんだ?
「…おかしいですか」
多少の怒りを込めて聞くと
桃屋はわざとらしく首を振っていいえ、と言った
「もしあなたが婚約を破棄してくださるのならそれだけで十分だったのですが、どうしても嫌だとおっしゃるのなら」
桃屋はポケットから名刺を取り出した。
「あなたをこちらで雇います」
「…なん、ですかこれは」
渡されたカードは、真っ白なただの紙に見えた
「螢光出版社のものです。ほら、その端に」
端に、と言われて見たカードの右側の淵には
《keiko》と黒い文字があった。
裏返すと本社の住所や螢光出版社、と漢字で書かれている。
「本当はその紙の真ん中に名前や役職を印刷するものなのですが、生憎私はまだ社員ではないので。
メモ程度に、お渡ししておきます」
桃屋はようやく僕の上から体をよけた。
未だ僕の一つ一つの仕草を監視しているが。
「雇う、というのは」
名刺のやり場が分からず握ったまま聞いた。
「モデルをやって頂きます」
もでる…
「えっと…モデルっていうと、あの、服を着るようなやつですか?」
「ええ」
桃屋は背を向け、テーブルの上のカップに紅茶を新しく注いだ。もう湯気もない。
「なぜ…?」
桃屋の背中の腰あたりに切ったような
傷跡があった。
「あなたが情報屋になるために必要なんです」
「じょう…ほう…や?」
話が見えない、何も見えない
桃屋は冷めた紅茶を一気に飲み干した。
「私のために稼いで下さいね」
いや、稼ぐって、結局金か!
「何で僕が…こんなことに…」
これじゃあ悪徳バイトに無理やり勧誘されたのと
同じじゃないか
というかその方がマシだった
こんな風に色々脅されるくらいなら!
カップを置いた桃屋がまたベッドに乗っかった
「なん、ですか…!」
もう、コレが同じベッドにいると思うと
気持ち悪いとか嫌だとか通り越して、
ただ恐ろしい。
いつ社会的に殺されるか、というバトルのようだ
ようだというか、実際そうか。