触って、七瀬。ー青い冬ー
第20章 歪形の愛執
桃屋がいつ僕を解放して、
約束を果たしたことにするのかわからない
しかし桃屋に従わなければつまり
僕の社会的死に繋がるのであって
今は大人しく扱われているしかない
「よくご存知で」
桃屋は洗って乾かしたままの髪の毛を耳にかけた
今はピンク色が隠れる意思もなく晒されていた
「仕事終わりの一杯はいかがですか?」
桃屋が棚からカップを出してきた
喉が突然カラカラに乾いてきた
「じゃあ、一杯頂きます」
もうすぐ家に帰らなければいけない時間だ
「ブラックで構いませんか?」
それにしても、
僕は随分成長したみたいだ
透明なガラスのポットに入った冷たいコーヒーを
不意に見ても、何も感じない
前のような苦味も、
喉を掻き毟りたくなるような香りも
息苦しくなるあの酸味も
平常通り、平生の僕だ
「ブラックで、大丈夫です」
そういうと桃屋はカップに注ぐ手を止めた
「本当に?」
どうして改まって確認するんだ
「甘味は必要ありませんか?」
探るような、舐めるような目つき
僕を見透かそうとするような目つき
いつのまにか、夢の中ですり替わっていた
夜の苦い味
《七瀬、水》
ぶち、と何かが千切れて潰れるような音がした
突然流れ出してくる記憶
黒い布
ネクタイ
手首の傷
血が滲んだネクタイの跡
氷漬けのアイスコーヒー
17階の夜景
エレベーターの彼女
ピアノの音
拍手
ビールの匂い
逃げ出した街
交差点
長い長い海の見える坂道
《逃げよう》
全部か苦くて痛い
もう大丈夫たと思っていたのに
少し揺さぶられるとすぐに顔を出す傷
痛い
頭がいたい
またこれだ
もう何度あったか
忘れようとしたあの味を思い出して
その度に息ができなくなった
《ごめん》
謝るな
《一人にしないから》
謝んな
嫌いだ
嫌いだ、大っ嫌いだ
こんな痛みもう耐えられない
「だから言ったのに」
桃屋が歪む視界に立って
上から見下ろしている
「いた、い、…痛い!いっ…」
叫ばずには、しがみつかずにはいられない痛み
「もう抗おうとしない方がいいですよ。
その方が楽になれるんですから」
しゃがみこんだ僕に口づけをしたと思うと
舌が割り込んで固い石が入ってくる