触って、七瀬。ー青い冬ー
第21章 湖上の雫
しなければ生きようと思えないということで、平穏を手に入れるほど死にたくなるという矛盾です。
だけど生きようと思う状況を作り出すのは限界状況でしかなく、その状況は恐らく奴隷か捕虜に近い極めて理不尽な状況です。
だから僕が死なない理由は死ぬのが怖いからで、
生きる理由は死ねないからです。
死ぬのが怖いのは平穏に暮らしているからで、
死ねないのは僕が限界状況に達したことがなく死という存在が遠くにありすぎるからです。
その存在を少しだけ近づけてくれたのは先生です。
先生のおかげで死が近くなって、死ぬのも生きるのも更に難しくなりました」
僕は生きるのも死ぬのも下手だった。
「その気持ちはよくわかる気がする。
考え方も遺伝子で決められるのかもしれない」
紘は笑った
いつも無表情に見えて、僕と同じくらい感情の起伏が激しくない人だった
その笑顔は笑顔と呼ぶには変化が小さすぎて気づかないくらいのものだったが紘が笑ったのが
僕にはよくわかって少し驚いて
少し嬉しかった
「七瀬夕紀、俺はあんたと少し血を分けてるらしい」
だからそう言われた時、あまり不思議に思わなかった
「あんたのお母さん、仕事で一度ロシアに行った時現地人と子供を作ったんだ。でも父親は既婚で、
つまり不倫してた。あんたの母親は妊娠が分かったが、父親の正妻もお腹が膨らみ始めたところだった。それで目が覚めて、あんたの母親は日本に帰った。それから日本人と結婚して、あんたが生まれた。
で、そのクソロシア人の嫡出子が俺。つまり腹違いの兄弟だ」
ロシア名はイヴァン・レノーロヴィチ・キリヤコフ
僕の耳に聞き慣れない発音で、紘は滑らかに母国語の舌を動かした
名・父称・姓という仕組みらしく、それで名前がとても長くなるのだという
顔が日本人に馴染むのは
紘の母親も日系人だったかららしい
「親父日本人が好みだったんだね
家にホームステイで来る日本人学生引き受けてたから余程だ
多分あれは手を出してたね
もう呆れもしない」
たまに不思議に感じた紘の話し方や言葉遣いは、その遍歴にあるらしかった
「七瀬夕紀、あんたが死んでも俺は気に病まないけどあんたが死ぬ前に会えてよかった
それだけ伝えておく」
死ぬ前に会えて良かった
人生とはそれが全てかもしれない