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触って、七瀬。ー青い冬ー

第22章 白銀の砂



昔は1日に何時間も練習していた
それが今は数十分で終わらせてしまう

弾いているのは好きだったが
心の奥や頭の隅によぎる不安が手を止める
強迫観念に駆られ動悸がする
弾いていて何になると呆れている自分
やめないでくれという自分
楽しいだけじゃ何も変わらない、生まれないと
遊びを忘れた自分


「…」


訳もなく同じ曲を繰り返し弾き続けては
訳もなく悲しみに暮れ
訳もなく涙を流し絶望に浸り
意味のない悲しみに呆れ疲れる
泣いたって意味がないくせに何を悲しむ必要がある

わからないだろうか

漠然とした不安はいつでも僕の背後をついて回る犬のように親しみ深く、振り返ればそこにいるし
またあの顔が見たいと思わせる愛らしさがある
頭を撫でると喜ぶように、僕が悲しむと奴も喜んで尻尾を振るようだ

不安は僕の病だ

生きている意味が突然わからなくなる
死んでいない意味がわからなくなる

つい数日前行った場所もあった人もよく覚えていないし

今日読んだ本のあらすじも、最後に残ったやんわりとした感触だけであまり思い出せない

一度読んだ文章もすぐに飛んで消えるし
言われたことも整理しないまま頷いて
言われたことはすぐに忘れて

だからよく覚えていない
なぜ今生きているのかも
どうやって生き延びてきたのかも

記憶が抜け落ちてしまっているようで
生きてきた感覚もない

断片的な記憶があるけれど
日々が平坦だったのか当時の自分が思い出せない

多分、犬と戯れていたせいで周りが見えていなかったんだと思う

嗚咽を漏らすでもなく
声を堪えるのでもなく
ただひたすらに徒然と流れるのは川のように
穏やかで留まるところを知らない涙

誰かに拭って貰いたいわけでもない
しかし自分で拭っても仕方がない
だってどうせまた濡れるから
雨の中で傘がなければ、止むまで待つしかないように


「…起こさないでよ」


暗い部屋、蝋燭のような灯りの中
紘が目を閉じ横になったまま言った


「…ごめんなさい」


すごく安心した
僕がピアノを弾いていた理由は、これだったのかもしれない

誰を起こしたかった
ずっと一人で弾いていて
でも誰かが横にいると弾く手が震えて
まともに演奏できない

だけど一人で弾き続けていると
一人で音楽をやっていると
だんだん孤独に向き合わなければいけなくなる

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